戦国時代

最強の戦国武将ランキングベスト10

戦国時代には様々な武将が登場し、しのぎを削っていました。

数々の有力な武将が登場してきましたが、誰が最強の武将なのか気になりませんか??

そこで、こちらに最強の武将ランキングを作成しました。

どの武将が最強なのか知りたい方は、こちらをご覧ください。

 

最強の戦国武将キャラランキング

 

1位 水野 勝成

水野忠重の長男として生まれ、徳川家康の従兄弟でもある。

猛将であり、戦国自由人の勝成。

初陣は1579年、武田勝頼との高天神城の戦い。

忠重に従って出陣するが、武田勝頼の撤退により戦にはならなかった。

次の第二次高天津城の戦いに忠重と共に参加し、この戦で勝成は最初の伝説を作りあげる。

なんと、若干16歳にして15も首級を上げて織田信長から感状と永楽銭の旗印をもらったのだ。

勝成の勢いはさらに加速する。

19歳の時に参加した甲州黒駒合戦では、徳川軍として参加し北条軍と対峙。

戦力的には不利で、北条氏勝が北条氏忠の救援に赴きピンチだったが、北条軍1万人に対し勝成は1人で戦いに挑み300もの首級をあげた

1638年、島原の乱では子供の水野勝俊、孫の水野勝貞と共に6000人で出陣。

この時、勝成は75歳という高齢にも関わらず戦歴と経験が請われ出陣命令を受けた。

この戦は勝成が直接指揮をとらなかったため、水野家としては初めて100人を超える戦死者を出す結果になったと言われている。

その後、1643年には京都の大徳寺にて1年間に渡って禅の修行を行った。

すでに87歳という超高齢だったのだが、鉄砲を的に的中させて周囲を驚かせていた

そして、1651年、福山城にて88歳で死去した。

 

2位 本多 忠勝

戦国時代から江戸時代前期にかけての武将大名。

織田信長や豊臣秀吉からも評価され、井伊直弼、鳥居元忠、榊原康政とともに徳川四天王として徳川家康を支えた。

ゲームなどでは、“戦国最強”と言われている武将でもある。

その所以は、生涯で56回も戦に出陣して一度も怪我をしたことがないという逸話からきている。

初陣は13歳の時で桶狭間の戦いの前哨戦となる「大高城兵糧入れ」。

松平元康(後の徳川家康)を支えて危険な任務を完遂。

14歳の時には鳥屋根城攻めで忠真の部隊に属し、「人の力を借りて武功を立てようとは思わない」と言って自ら敵陣に駆け入り敵の首を挙げた。

1583年の小牧・長久手の戦いでは、豊臣方16万人の大軍の前に徳川軍が苦戦していると聞き、忠勝はたった500名の兵で豊臣の大軍の前に立ちはだかった。

その他にも姉川の戦いでは朝倉軍1万人に対して単騎で突撃したり、三方ヶ原の戦いでは3000人を率いて殿として2万7千人の武田軍を食い止めたりなどのエピソードもある。

愛槍は「蜻蛉切り」で、“天下三名槍”の一つに数えられており切れ味は抜群。

慶長12年に眼病を煩い、慶長14年に家督を忠政に譲って隠居。

そして慶長15年の10月18日、享年63歳で桑名で死去した。

 

3位 可児 才蔵

織田信長の家臣であった柴田勝家、明智光秀、前田利家らに仕えた。

大国を収める領主とかではなく、大名に仕える一武士である。

1600年の関ヶ原の戦いでは福島軍の先鋒隊長として参加し、前哨戦の岐阜城の戦いで3、関ヶ原本戦でも敵兵の首を17も取り、家康からも賞賛された。

この17の方は戦後に笹の葉を含ませていた首の数で、誰が見ても才蔵が取った首だと分かるような印をつけた。

これをきっかけに「笹の才蔵」という異名を持つことになる。

主君を何度も変えている才蔵は、当時から人気がかなり高かった。

江戸時代中期の「常山紀談」の中で、ある説によると丹波山城、谷出羽、稲葉内匠、中黒道随、渡辺勘兵衛、辻小作らと才蔵を含めたこのメンバーは立身を誓い合った仲で「天下七兄弟」と呼ばれていたという。

愛宕権現を厚く信仰していた才蔵は、1613年の6月24日の愛宕権現の縁日の日、潔斎して身を清め、甲胃をつけて床机に腰掛けたまま死去したと伝えられている。

享年は60年。

 

4位 山県 昌景

武田信玄の家臣であり、最強武将と語られることがあるほど、武勇に優れていた武将。

後代には武田四天王の一人に数えられるほどの実力の持ち主

身長は130〜140cmと小柄な体格だったが、「赤備え」として有名だった山形隊は最強部隊の代名詞となり、赤備えを見ただけで勇猛な兵ですら震え上がったと言われている。

1572年の三方ヶ原の戦いで、徳川軍を完膚なきまでに叩きのめした。

家康の家臣である本多忠勝の軍勢と激しくぶつかり合い、徳川軍を大敗北させたのだ。

個人としての戦闘能力も高く、軍を率いても強い山県昌景は武田信玄から大絶賛されていた。

そんな最強武将である山県昌影だが、武田信玄が死んでから2年後に起きた長篠の戦いで戦死することになる。

長篠の戦いは、武田勝頼VS織田信長・徳川家康連合軍の戦で、織田信長が初めて鉄砲を戦場に持ち込み革命を起こした戦だ。

一進一退の攻防を繰り広げていたが、鉄砲隊の攻撃が始まると状況は圧倒的に信長方の方が有利になり状況は一変。

死ぬことを決意した山県昌景は、銃弾が飛び交う中を刀をかざし突撃し、全身に銃弾を浴びて絶命したという。

これぞ男、武士としての死に方と言わんばかりの人生の終止符。

享年は47歳。

 

5位 森 長可

織田信長に仕え、森蘭丸の兄。

父の可成と同様に槍術に優れ、秀でた武勇から「鬼武蔵」という異名を持つ。

森長可の伝説エピソードは、長島一向一揆での出来事だ。

若干15歳という年齢で、戦闘スキルも未知数だったこの頃。

長可は、織田勢の中でたった一人、敵地に向かって船で渡り乗り込んだのだ。

この長可の勢いに続けと織田勢が一気に加勢していき、結果的に長可は27もの首級を上げた。

その後も様々なシーンで暴れまくり、長可は戦国一の暴れん坊武将となっていった。

そんな長可だが、死はあまりにも早く27歳という若さでこの世を去った。

小牧・長久手の戦いで井伊直弼との激戦の末、戦死したのだった。

 

6位 加藤 清正

秀吉に仕え、豊臣家一筋で生きてきた武将。

豊臣家の猛者たちで作った精鋭部隊、「淺ヶ岳の七本槍」のメンバーに抜擢されている。

武将としてのスキルはもちろん、築城の名人だったり、領内の統治が上手かったりなど戦働き以外でも能力を発揮した。

そんな清正の有名なエピソードといえば、朝鮮出兵での虎退治だ。

清正の軍勢が休憩を取っていた時、一匹の虎が出現し馬と小姓に襲いかかり素早く逃げていった。

馬と小姓は命を落とし、この出来事に激しく怒った清正は虎退治することを決意。

猛獣の虎を槍一本で見事に討ち取ったのだ。

このシーンは後世でも人気のエピソードであり、浮世絵などでも描かれている。

清正はトレードマークが多い人物としても有名。

清正のシンボルとも言われる「長烏帽子兜」や愛馬の帝釈栗毛など。

享年は50歳、船内で発病し熊本で死去した。

 

7位 井伊直弼

徳川四天王(本多忠勝、榊原康政、酒井忠次、井伊直弼)の一人。

幕末期の江戸幕府にて大老を務め、日米修好通商条約に調印し、日本の開国近代化を断行した。

小姓の頃から、家康の命を刺客から守るなどの働きをしており、武力は武田軍の赤備えを継承し「井伊の赤鬼」と恐れられていた。

徳川四天王の中で一番若かった井伊直弼だが、家康からはとても可愛がられていたという。

現代的に言うと、容姿はイケメンで頭がキレて仕事もできる。

あまり男に興味は示さなかった家康がとても可愛がり、四天王にまで抜擢したということは絶対的な信頼を置いていたことに他ならない。

対照的に、自分の家臣には好かれなかったそうだ。

と言うのも、家臣に対しては凄く厳しい人だったらしく、失態を起こしたり違反をした者には厳正な処罰をしていたのだとか。

ただ、結果を残す家臣へはちゃんとした褒美を与えていたようで、不満ばかりをもたれていたわけではない。

享年は46歳。

島津義弘が率いる島津軍に激しい撤退をされ、島津軍が放った鉄砲が命中してしまい、その傷がもとで身体が弱り2年後に亡くなった。

 

8位 片倉 小十郎

伊達政宗の家臣で、軍師的な役割を担った重臣。

小十郎がまだ幼い時に父と母がなくなり、20歳ぐらい歳上だった喜多が母代わりを務めた。

小十郎は伊達政宗の10歳年上で、もともとは伊達政宗の父・輝宗の小姓だった。

19歳の時に政宗の教育係へと抜擢されたのをきっかけに、政宗の右腕的ポジションへと上り詰めていくことになる。

が、小十郎が政宗の教育係に抜擢されたのは異例のことで、なぜなら小十郎は伊達家譜代の家臣でもなければ武家出身でもないからである。

こういった状況下で抜擢された理由は、政宗の父である輝宗が小十郎の聡明さと伊達家に対する厚い忠誠心をとても評価していたからだと言われている。

圧倒的な主従関係である政宗と小十郎。

この2人の強烈なエピソードがある。

政宗が5歳の時に天然痘という病を患い、その病毒によって右目の眼球が飛び出てしまうという異様な風貌になってしまったのだ。

月日を経て病気は完治したのだが、眼球は飛び出たままの状態を政宗が激しく嫌い、家臣に「右目を潰せ」と命じた。

しかし、誰も政宗の右目を潰すという行為に一歩を踏み出す家臣がなかなか現れず。

そんな中、小十郎が名乗りを上げたのだ。

「もしものことがあれば切腹して責任を取る」という覚悟のもと、小十郎は小刀で政宗の右目を切り落とした。

右目を切り落とせと命じる政宗とそれを実行してしまう小十郎。

クレイジーな2人は切っても切れない信頼関係が生まれたことには間違いない。

政宗に忠誠を尽くした小十郎は1615年、10月14日に病のため死去。

享年59歳。

 

9位 馬場 信春

武田四天王の一人で、武田信虎、信玄、勝頼の三代に渡って武田氏に仕えた。

築城の技術があり、「深志城」、「牧之島城」、「諏訪原城」、「小山城」の4城が信春によって築城されたと伝えられている。

中でも、「深志城」は国宝に指定されている「松本城」の前進にあたる城となる。

これだけ国宝級の城を築けるということは、信春の築城の技術は相当の腕前だったことが推定できる。

また、信春の最もインパクトあるエピソードと言えば、長篠の戦いで戦死するまで生涯で70回もの戦いに参加しながら、かすり傷ひとつ負わなかったと言われていることだ。

この出来事から、「不死身の鬼美濃」という異名も持つ。

この70回という数字はあの本多忠勝の57回をゆうに越す凄まじい記録である。

最後の長篠の戦いでは、追撃の織田軍と戦い戦死した。

享年61歳。

 

10位 佐竹 義重

関東一の鉄砲隊を備え、佐竹時代の全盛期を築いた大名。

剣の達人として有名な義重の逸話は、これぞ侍といった感じだ。

愛刀の「八文字長義」で北条方の武将を切ったところ、その人物は兜ごと真っ二つになったという。

他にも、北条軍と戦っている時に7人の敵を一瞬で斬り伏せたという逸話もあり、「鬼義重」、「坂東太郎」という異名を持っている。

豊臣政権下で佐竹家の領土を増やしていることからも大名としての評価も高い人物。

また、俗説として佐竹氏が出羽国へ移る際に常陸国中の美女を集め、今の秋田美人の先駆け作ったといわれている。

最期は1612年、4月19日。

狩猟中に落馬して死去した。

享年は66歳。

まとめ

有名な戦国武将といえば?と問われた時に思い浮かぶのは織田信長や豊臣秀吉、徳川家康など学校の教科書に掲載されている人物が多いかもしれない。

ただ、今回ピックアップした戦国武将たちのように、現代人にはそんなに認知されていない個性的な戦国武将が歴史上で数多く実在するのは事実だ。

トップに仕える家臣たちはビジネスシーンで置き換えれば社長の右腕である副社長や執行役員といっていい。

トップにスポットライトが当たるのはいいが、それは下の支えがあってこそだといえるのではないか。

こうして家臣たちに注目しても、実にキャラが濃い人物が多くいて背景を辿ると面白いですね。