江戸時代

新撰組メンバーまとめ

幕末に人々を魅了した新撰組。

そんな新撰組だが、芹沢や近藤、土方など個々の生涯というのは一体どんな結末だったのか?

新撰組のメンバーを一挙に公開し、それぞれの半生を紹介していきます。

 

新撰組とは

江戸時代末期に、京都において反幕府勢力を取り締まる警察活動に従事したのち、旧幕府軍の一員として戊辰戦争を戦った武装組織。

隊長は芹沢鴨、次いで近藤勇、副長が土方歳三。

戊辰戦争では鳥羽・伏見の戦いに敗れた後、甲州で新政府軍と戦って敗走し解隊した。

新撰組メンバーまとめ

 

初代局長 芹沢鴨

幕末の水戸藩浪士で、新撰組の初代筆頭局長。

芹沢鴨は本名ではなく、下村嗣次という名前だった。

新撰組として活動する前は、「天狗党」という団体に所属し、尊皇攘夷の名の元にお金を巻き上げたり、暴力に訴えたりと好き放題してしまったがために評判は悪かった。

芹沢を含む天狗党の幹部は拘束され、死刑を言い渡されたが、政府の世論が変わったことにより釈放された。

その後、同郷の仲間たち4名の芹沢組は、近藤勇・土方歳三・沖田総司たちが所属する近藤組と結成し「新撰組」が誕生する。

初代局長として新撰組を率いた芹沢だが、隊内は芹沢派と近藤派に二極化する勢力となった。

リーダーシップはあったが、酒癖が悪く問題行動も多々起こしていた芹沢は、近藤派のメンバーからはなかなか慕われなかった。

土方歳三や沖田総司らは、昔から慕っている近藤勇がリーダーとしてふさわしいのではないかと感じていて、芹沢とは反りが合わなかった。

そして、1863年の9月16日、八木邸にて芹沢は仲間である近藤派の面子に暗殺された。

 

2代目 近藤勇

1834年、10月9日に武蔵国多摩郡上石原村(現在の東京都調布市野水)に、宮川久次郎の三男として生まれた。

父の久次郎から「三国志」や「水滸伝」などの英雄の話を聞いて育ち、のちの人生に大きな影響を与えたと言われている。

15歳で天然理心流の剣術道場・武衛館に入門し、28歳で天然理心流の宗家を継ぐ。

剣術一筋に力を注ぎ、武術が上達すると神田昌平橋近くに住む溝口誠斎について漢学も修めた。

その後、武家伝奏より「新撰組」の隊名を下腸され、近藤、土方らはまず副長の新見錦を自殺させた。

さらに、9月16日に芹沢らを暗殺すると近藤勇主導の新体制が構築された。

新体制となった近藤勇の新撰組は、「池田屋事件」、「禁門の変」、「三条制札事件」などで活躍し、隊士数200名を超える大所帯となり最盛期を迎えることになる。

しかし、1863年の大政奉還から流れが変わり、戊辰戦争に参加するも「鳥羽・伏見の戦い」で敗れ、江戸へ戻ることになった。

最期は1868年4月25日、近藤は板橋刑場で横倉喜三次、石原甚五郎によって斬首された。

享年は35歳。

 

副長 土方歳三

新撰組の副長。

局長、近藤勇の右腕として数々の事件で武名を顕し、また、隊内に峻厳な規律を実施して鬼の副長として称され、剣豪揃いの隊士たちに恐れられた。

25歳の時に天然理心流に入門し、ここで盟友である近藤勇や沖田総司と出会う。

1861年、近藤が天然理心流の4代目を継承し、記念に紅白の野試合が催され、歳三は紅組の大将を守る役で出場した。

1863年に起きた八月十八日の政変後、壬生浪士組の活躍が認められ新撰組が発足。

その後、新見錦が切腹、芹沢鴨などを自らの手で暗殺した。

近藤を局長、土方を副長とした新撰組は、主に近藤が隊外での交渉などで新撰組の権力を高める一方、土方は新撰組という組織そのものをプロデュースしていった。

1868年の「鳥羽・伏見の戦い」では、負傷していた近藤の代わりに土方が指揮を執っていた。

新政府軍に近藤が処刑された後、土方は島田魁ら数名の隊士のみを連れて大鳥圭介らが率いる旧幕府軍と合流し、北へ北へと転戦し、仙台で榎本武揚らと合流すると蝦夷地に渡る。

土方の最期は1869年5月11日、新政府軍の函館総攻撃による。

わずかな兵を率いて出陣した土方は、函館一本木関門まで来ると、敗走してくる味方に対して「退く者を斬る!」と一喝し、鬼神のごとく戦うが、銃弾が土方の腹部を貫き落馬した。

側近が駆けつけた時にはもう絶命していたという。

享年は34歳。

 

参謀 伊東甲子太郎

新撰組の参謀、及び文学師範。

容姿端麗で話が上手く、相当な人望があった。

1864年、29歳の時に藤堂平助の仲介もあって上洛。

以後、格上の立場である新撰組の総長、山南敬助よりも破格の待遇で近藤勇が参謀として伊藤を受け入れる。

「攘夷」という点で伊東甲子太郎は近藤勇ら新撰組と結ばれていたが、近藤勇の目的は新撰組を率いて「佐幕」として活躍することで、江戸幕府の武士になることであったのに対し、伊東甲子太郎は「勤王」という倒幕派という考えだった。

そのため、お互いの思想がぶつかり合い決裂し、新撰組は2つに分裂した。

1867年、伊東は新撰組を脱退し、藤堂平助を含めた14名と共に「御陵衛士」を結成。

最期は1867年の11月18日、近藤に呼ばれた伊東は妾宅にて接待を受けたが、酔わされた挙句にその帰り道、新選組隊士の数名に油小路の本光寺門前で暗殺された。

これが油小路事件。

享年は33歳。

 

山南敬助

新撰組の総長。

近藤勇の天然理心流剣術道場、武衛館に他流試合を挑み、相対した近藤に敗れる。

この時に近藤の腕前や人柄に感服し近藤を慕うようになり、以後は武衛館の門人と行動を共にするようになる。

その後、近藤が主体となった新撰組で総長となったが、熱烈な尊王攘夷論社として学識も高かった伊東甲子太郎が入隊したことで、幹部としての立場を失うこととなる。

1865年の2月には、「江戸へ行く」と置き手紙を残して脱走した。

新撰組の法度で脱走は切腹とされており、山南が可愛がっていた沖田総司が新撰組屯所に連れ戻した。

そして、2月23日の夕刻、壬生の屯所前川邸の一室で山南は切腹をとげることとなった。

享年は33歳。

 

新見錦

幕末の水戸藩士、壬生浪士組の幹部。

1863年2月、清河八郎の建築により上洛する江戸幕府14代将軍、徳川家茂の警護のために組織された浪士組に加盟し、三番組小頭になる。

新撰組の前進である壬生浪士組においては近藤勇、芹沢鴨らと並んで局長の立場でもあったが、壬生浪士組の幹部としての行動の実態はよく分からない。

新撰組の幹部、永倉新八が記した「浪士文久報国記事」によると新見は乱暴が甚だしく、法令を犯して芹沢、近藤の説得にも耳を貸さなかったという。

『浪士文久報国記事』によれば一同相談の上切腹と決まったが、またも四条木屋町に旅宿する水戸浪人吉成常郎に乱暴を働いたため梅津某の介錯で切腹させられたことになっており、真相はよく分からない。

享年は29歳とされているが、史料が少なくいまだ謎の多い人物として知られている。

 

一番隊組長 沖田総司

新撰組の一番隊組長

江戸の白川藩邸にて生まれた。

1850年、井上源三郎の家に寄った際、9歳にも関わらず大人に剣術で勝ったということで、すぐにでも腕をさらに磨いた方が良いということになり、天然理心流道場「試衛館」に入門。

1863年には浪士組結成に参加して上洛。

分裂後は近藤らに従い残留し、新撰組を結成。

一番隊組長となり、剣豪ひしめく新撰組の中で常に重要な任務をこなした。

しかし、1864年以降は肺結核のため目まぐるしい活躍はなくなる。

ただ、この状況下の中でも禁門の変には近藤、土方、武田、永倉と共に出勤し、山南敬助が新撰組を脱走した際には沖田が介錯している。

その後、病状は悪化し「鳥羽・伏見の戦い」には参加しなかった。

最期は1868年5月30日、幕府の医師である松本良順の手配で千駄ヶ谷の植木屋・平五郎宅の改造された納屋で療養したが、板橋で斬首された近藤の死は知らされないまま息を引き取った。

享年は27歳。

 

二番隊組長 永倉新八

新撰組の二番隊組長

1846年、岡田利章の神道無念流剣術道場「撃剣館」に入門。

その後、近藤らと共に浪士組に参加。

新撰組が結成されると二番隊組長や撃剣師範を務めるなど、中枢を成した。

1864年の池田屋事件では近藤や沖田総司らと共に池田屋に突入。

沖田が昏倒し、藤堂平助が負傷して離脱、永倉も左手親指に深い傷を負った中、防具がボロボロになり刀が折れるまで戦った。

大政奉還後、戊辰戦争へ突入し、永倉も幕臣として鳥羽・伏見の戦いに参戦するも新政府軍に敗戦し江戸へ撤退。

晩年は小樽で暮らしながら地元の刑務所で剣術師範を務めたり、道場を開いたり大学剣道部を指導したりと剣術一本の生涯を送ることとなる。

最期は1915年1月5日、虫歯が原因で骨膜炎と敗血症を併発し、小樽にて死去した。

享年は77歳。

 

三番隊組長 斎藤一

新撰組の三番隊組長で、副長の助勤。

19歳のときに京都の剣術道場主、吉田某のもとに身を隠し、吉田道場の師範代を務めた。

1863年3月10日、新撰組の前進である壬生浪士組に入隊。

斎藤は新撰組幹部の選出にあたり、20歳にして副長助勤に抜擢された。

副長助勤は新撰組における位で、局長、副長に次ぐ三番目となる。

後の組織再編成後は、三番隊組長となりさらに頭角を表す。

池田屋事件の際には、斎藤は土方歳三隊に属し、事件後に幕府と会津藩から金10両、別段金7両の恩賞を与えられた。

沖田総司、永倉新八と並び新撰組最強の剣士の一人であったと言われ、実戦においては天才・沖田総司よりも強かったのではないかという説もある。

永倉には、「沖田は猛者の剣、斎藤は無敵の剣」と言わしめたほど。

その後、戊辰戦争で近藤や土方らと別れ、会津との戦いの末に新政府軍に投降。

明治という新時代においては、「藤田五郎」と改名した斎藤は、1874年の7月に東京へ移住し警視庁に採用される。

巡査部長、警部補、警部と昇進し明治25年12月に退職。

最期は大正4年9月28日、胃潰瘍により他界。

享年は72歳だった。

 

四番組組長 松原忠司

新撰組の四番隊組長

1835年、播磨国小野藩の藩士の子として生まれる。

温厚な人物として知られ、壬生近辺からは総長の山南敬助と共に「親切者は山南と松原」という言葉が伝わっている。

1863年5月、新撰組の前身である壬生浪士組の最初の募集に応じて入隊。

この年に起きた八月十八日の政変では、坊主頭に白鉢巻、脇には大薙刀を備えるという弁慶さながらの姿で臨み、「今弁慶」と呼ばれた。

1864年の池田屋事件では、土方歳三の隊に属し戦功を挙げ報奨金15両を賜る。

そして、翌年の1865年4月の組織再編成で、四番隊組長、柔術師範となる。

最期は同年の9月1日、新撰組の記録では病死とされているが切腹などの説もある。

享年は31歳。

 

五番隊組長 武田観柳斎

新撰組の五番隊組長

出雲母里の出身で医学生だった。

江戸へ行き、福島伝之助に学び、甲州流軍学を修める。

1863年の後半に新撰組に参加し、学者として近藤勇に重用され1864年には副長助勤に抜擢された。

池田屋事件では近藤と共に7人の隊士を率いて第一陣として斬り込み、古高俊太郎捕縛するなどの功により褒賞金20両を賜った。

翌年7月19日の禁門の変で軍地方として戦略担当幹部となり、五番隊組長として活躍。

最期は1867年6月22日、京都郊外の鴨川銭取橋にて暗殺された。

享年33歳。

 

六番隊組長 井上源三郎

新撰組の六番隊組長

天然理心流の道場へ入門し、近藤勇の兄弟弟子として、土方歳三とともに稽古に励んだ。

1862年2月、近藤と土方らと共に浪士組に入隊して上洛し、新撰組に入隊。

新撰組六番隊組長、年長者幹部を勤め続けた。

池田屋事件では土方隊の支隊の指揮を担当。

近藤隊が斬り込んだという知らせを受けて、部下と共に池田屋に突入。

8人の浪士を捕縛する活躍を見せた。

人物としては人当たりが良く、生真面目で誠実な人物として知られ、仲間には「源さん」と呼ばれ親しまれていた。

最期は1868年1月5日、淀千両松の戦いで激戦を交え、その最中に井上は腹部に被弾し命を落とした。

享年は40歳。

 

七番隊組長 谷三十郎

新撰組の七番隊組長

備中松山に生まれ、幼少期より直心一派の師範でもあった父から武術を学ぶ。

谷三兄弟の長男で、剣術も槍術も名手。

1863年の秋に三兄弟揃って新撰組に入隊。

池田屋事件では土方隊の組みに属し、事件後は褒賞として17両を賜る。

ぜんざい屋事件では、大阪の豪商・加賀屋四郎兵衛に対する献金要請で交渉役を務め、3万1500両もの大金を得ることに成功した。

最期は1866年4月1日、京都東山の祇園社にて死去。

享年は34歳。

 

八番隊組長 藤堂平助

新撰組の八番隊組長

1884年に江戸にて生まれる。

北辰一刀流の開祖、千葉周作の道場玄武館の門弟となり、北辰一刀流目録を十代半ばで取得した。

平助は新撰組結成以前からの生え抜きの同志であり、斎藤一とともに最年少幹部の一人

池田屋事件では近藤らと乗り込み、刀がボロボロになるまで奮闘した。

1867年には伊東に率いられ、御陵兵士として新撰組を離れることに。

尊王攘夷の志士への道をようやく歩みだすようになる。

最期は1867年の11月19日、新撰組に暗殺された伊東の遺体を奪還するため新撰組隊士らと死闘の末、戦死した。

享年は23歳。

 

九番隊組長 鈴木三樹三郎

新撰組の九番隊組長

1837年、鈴木専右衛門忠明の二男として志筑に生まれる。

実兄は伊東甲子太郎。

1864年10月、江戸深川佐賀町の伊東道場に身を寄せていた際に、新撰組の藤堂平助の斡旋により兄の伊東と共に新撰組に加盟する。

しかし、1867年3月、兄らと共に新撰組から分離し御陵衛士に属す。

同年11月、油小路の変で兄の伊東が新撰組に暗殺される。

兄の死体を引き取りに同志数名と向かうも新撰組の多数に包囲される。

苦戦の末、脱出に成功。

鳥羽・伏見の戦いでは薩摩藩の中村半次郎の指揮下に入って、伏見奉行所の新撰組と戦う。

明治以降は主に司法・警察関係に奉職し、1879年にはには鶴岡警察署長として行幸の指揮を執った。

最期は1919年、老衰のため死去した。

享年は83歳。

 

十番隊組長 原田左之助

新撰組の十番隊組長

1840年に伊予松山藩に生まれる。

谷万太郎から種田流槍術の免許皆伝を受け、槍の名手として知られた。

その後、江戸に出て浪士組に参加して上洛。

新撰組結成後、殿軍である十番隊組長となる。

芹沢鴨の粛清や池田屋事件をはじめ、新撰組の主だった暗殺や斬り合いにほとんど関わっている。

鳥羽・伏見の戦いや甲陽鎮撫隊まで新撰組として戦うが、その後は永倉新八と共に靖兵隊を結成。

しかし、江戸を離れてからすぐに隊を離れ、江戸に戻り彰義隊に加入した。

最期は1868年の7月6日、上野戦争の際に負傷し、その傷がもとで本所の神保山城守邸で死亡したとされている。

享年は29歳。

まとめ

2004年1月11日から12月12日までNHKの大河ドラマとして放送された新撰組。

近藤勇を元SMAPの香取慎吾、土方歳三を山本耕史、沖田総司を藤原竜也などが演じたことで記憶に残っている人は多いのではないか。

この影響により2004年以降は、高校日本史教科書では「新撰組」の表記が増えてきている。

 

一世を風靡した新撰組だが、その期間はたった5年の間だったと言われている。

規律が厳しかったがゆえに、殺されるものや切腹を余儀なくされる者が少なくなかったようだ。

ただ、こうして深く人物を掘り下げてみると短命で終えた者と長寿により生き延びた者に別れることで、情報量も変わり現代人に疑問を残すところが面白いところである。