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日本三大奇襲と呼ばれる3つの戦いを解説

今もなお語り継がれる歴史的な戦い、日本三大奇襲。

河越城の戦い、厳島の戦い、桶狭間の戦いの三つですが、伝説的なこれらの戦は一体どのような戦いだったのでしょうか。

今回はこの日本三大奇襲をまとめてみました。

 

日本三大奇襲と呼ばれる3つの戦い

 

河超城の戦い

1546年に起きた河超城の争奪を巡って河超城周辺で争われた一連の戦いのことです。

その中でも、5度目に起きた河超夜戦は、関東の政局を決定した大きな戦いで有名になります。

この河超夜戦は、北条氏軍と上杉憲政・上杉朝定・足利晴氏の3者連合軍が武蔵国の河越城の付近で戦闘し、北条軍が勝利を収めました。

特に目まぐるしい活躍を見せたのが北条氏康と綱成の二人で、10倍の敵を擁した上杉軍に奇襲作戦で討ちとったこの戦いは、二人の呼吸がぴったりと合ったことにより大きな成果をもたらしたのです。

そして、氏康と綱成は戦国時代でも有数の名将に数えられるようになりました。

 

厳島の戦い

1555年に安芸国厳島で毛利元就と陶晴賢との間で行われた合戦です。

現在の厳島神社全体を戦場とした大規模なもので、三代奇襲の一つに数えられています。

毛利元就が圧倒的に不利な状況でありながら勝利を収めた戦いとして有名です。

数で見ると毛利軍が4000に対し、陶晴賢が率いる陶軍の兵力が20000。

約5倍近くの兵力差がある中で、平地でまともに勝負をしても叩き潰されるのが目に見えていた毛利は、4000の兵力で戦える勝算を考えました。

そして、思いついたのが戦場の舞台を狭い範囲とし、そこに陶晴賢をおびきよせるという作戦だったのです。

戦場の舞台となったのは厳島神社で、陶軍を包囲した毛利軍はたたみかけるように襲撃し、勝利しました。

その後、毛利は神聖なる厳島神社を原型に戻すべく、戦後処理を行いました。

[吉田物語]の記述によると、陶軍の死者は4780人にのぼり、死者を全て対岸の大野に呼び出し、島内の血が染み込んだ部分の土を削り取らせたといいます。

以降も社殿の整備や島の保全に務めるなど、毛利は厳島神社のアフターフォローもきっちり行ったようです。

 

桶狭間の戦い

1560年に織田信長が今川義元を討ち取った歴史的に有名な戦いです。

25000という大軍を引き連れて尾張に侵攻した駿河の戦国大名である今川義元に対し、尾張の大名・織田信長が少数の軍勢で本陣を強襲し、今川義元を討ち取って今川軍を退却させました。

信長の兵力は5000で5倍の兵力差があるなか、信長はどうやって義元を撃退したのでしょうか?

当時、信長の年齢は27歳と若く、対して今川義元は45歳で圧倒的に経験の差がありました。

悪条件の中、信長は父、信秀と同じく戦の時は積極的に攻めて死ぬと決めていました。

この時、信長は[勝負は時の運である]とも言っていたといいます。

不利な状況下で信長が勝利した一番の要因はスパイです。

今川軍に梁田政綱という武将をスパイとして送り込み、有力な情報を入手した信長は先手を打ち行動を開始しました。

有力な情報というのは今川義元の位置であり、正確な位置情報をつかんだ信長は気づかれないように接近していきました。

そして、雨風で体が濡れて風に晒されたことで体力低下した今川軍を織田軍が突撃し、不意を突かれた今川軍は2000という少数の織田軍に惨敗したのです。

この桶狭間の戦いによって、信長の名は一躍天下に知られることとなりました。

まとめ

今回の日本三大奇襲は全て少数の軍勢が奇襲攻撃で大軍を破ったという構図になります。

兵力差も圧倒的に不利な状況下で勝利するというのは、具体的な戦略を立てなければ難しいです。

ビジネスの世界も同様なことが言えますが、何も考えずに行動に移しても結果はついてきません。

やはり、戦略を立てるからこそ結果を出せたり勝てるのです。

戦国時代から変わらず、これは現代に置き換えても同じですね。