明治時代

明治維新の中心人物まとめ

今となっては日本に西洋の文化が根づいているのは当たり前の時代。

しかし、西洋の文化は明治維新という大改革があったからこそ現代日本に浸透しているのです。

そんな日本の歴史を大きく動かした明治維新。

この時の中心人物たちをまとめて紹介します。

 

明治維新とは

19世紀後半に日本で起こった近代化への一連の維新のことを言います。

薩摩藩と長州藩が同盟を結び、1868年に新政府軍と旧幕府軍が争う[戊辰戦争]が勃発しました。

この争いにより、約260年間続いた江戸幕府は滅亡し、日本は新しい明治時代へと進むようになったのです。

 

その後、[富国強兵]・[殖産興業]・[文明開化]を3大スローガンに掲げ、諸外国に追いつくため改革に身を乗り出すようになりました。

改革の内容は多岐に渡り、中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想などですが、どこまでが明治維新に含まれるかは定かではありません。

明治維新の中心人物まとめ

 

伊藤博文

日本で最初に内閣総理大臣となった政治家です。

長州藩の私塾である松下村塾に学び、幕末期の尊王攘夷・倒幕運動に参加しました。

明治時代に入ってからは新政府の参与や外国事務局判事などに就き、井上馨や大隈重信らと共に改革に力を入れていきました。

1870年には財政幣制調査のため、芳川顕正・福地源一郎らと渡米し、ナショナル・バンクについて学び、帰国後に伊藤の建議により日本最初の貨幣法である新貨条例が制定されました。

[大日本帝国憲法]起草の中心人物ともなり、1885年に伊藤の英語力が高く評価され、初代内閣総理大臣に就任することになりました。

ちなみに44歳2ヶ月での就任は、2018年現在日本の歴代総理大臣の中で最も若い記録とされています

1894年には日清戦争が勃発し、1年も経たずに終戦を勝利させることに成功しました。

さらに1904年の日露戦争では、ルーズベルト大統領への講和交渉の依頼をすることに力を注ぎ、ポーツマス条約の締結を実現させることに繋げました。

そして最期は1909年、伊藤は中国のハルビンで暗殺されました。

享年69歳。

 

西郷隆盛

1827年12月7日、薩摩藩の下級藩士として生まれました。

薩摩は他の藩と比べて武士の割合が多く26%を占めており、戦国の雄である島津家が郷中教育という独自の教育で藩士弟を鍛え上げていったようです。

18歳の時に郡方書役助を務め、1847年に郷中の二才頭となりました。

この頃、イギリスとフランスの軍艦が日本に来航し、通商を迫り始めるという問題が起こりました。

さらに、同時期に海外からの脅威以外にも薩摩藩を揺るがす騒動[お由羅騒動]が起こったようです。

西郷に転機が訪れたのは1853年、浦賀にペリーが来航した時になります。

斉彬が幕府から江戸に来るよう要請され、西郷も同行し、江戸に留まりました。

そしてこの時に、西郷は[御庭方役]となり諸藩の動向を探るという重要な職務を全うしたのです。

こうして本格的に政治活動に取り組むようになった西郷は、諸藩から一目置かれるようになりました。

その後は斉彬の右腕として活動していくも、1857年に将軍継嗣問題に負けた斉彬が赤痢で急死したことにより、西郷は殉死も考えたほどでした。

翌年1858年に安静の大獄が起き、江戸幕府からの弾圧が始まるようになります。

一番の目的としては、一橋派を抑え込むための政治闘争でした。

以後、勝海舟からの紹介で坂本龍馬と出会い、西郷が38歳の時に薩長同盟が実現しました。

これが明治維新へ大きな一歩をもたらしたことになります。

最期は1877年、西南戦争での激闘の末49歳で死去しました。

 

大久保利通

1830年9月26日、薩摩藩士として生まれました。

明治維新の元勲であり、西郷隆盛・木戸孝允と並んで[維新の三傑と呼ばれています

小さい頃から胃が弱かった大久保は、武術は得意ではなかったが、読書や討論などの学問においては他の同志たちの中でも抜きん出ていました。

明治維新では廃藩置県など大きな改革を担当し、日本全体の政治を取り仕切るレベルの大きな活躍を見せたようです。

明治時代に入ってからは、これまで以上に多忙を極めるようになり、岩倉使節団の一員としてヨーローッパへ行ったり、西南戦争なの内乱を鎮圧したりと、食事をとることすら難しいほどの忙しさでした。

大久保が目指していた国家は、ドイツであるともイギリスであるとも言われており、現在に至るまでの日本の官僚機構の基礎は、内務省を設置した大久保によって築かれたとも言われています。

最期は1878年5月14日、石川県士族の島田らによって紀尾井坂で殺害されました。

これが紀尾井坂の変。

享年は49歳。

 

木戸孝允

1833年に長州藩士として山口県で生まれました。

少年時代は病弱でありながら大の悪戯好きで、川を行き来する船をひっくり返して大爆笑するという結構な度が過ぎた行動を起こしていました。

ただその分、悪知恵が働くほど頭の回転が早く、即興で漢詩を作るという毛利敬親の試問に2回合格しています。

これをきっかけに、長州藩の若き俊英として注目され始めました

1852年には剣術修行を名目とする江戸留学を藩に許可され、江戸に旅立ちます。

ここで江戸三大道場の一つ、「力の斎藤」の練兵館に入門し、神道無念流剣術の免許皆伝を得て、入門一年で練兵館塾頭となりました。

5年間の間で練兵館の塾頭を務め、その間、剣豪の名を天下に轟かせるまでとなったのです。

その後は長州藩の尊攘派のリーダーへと成長。

1866年には坂本龍馬の斡旋で薩長同盟を結びました。

木戸は長州の代表として、薩摩の小松帯刀・大久保利通・西郷隆盛・黒田清隆らと薩摩・長州でたびたび会談し、薩長同盟を不動のものとしていきました。

翌年の第二次長州征討にて幕府軍を退け、大政奉還後に長州藩の復権に成功させます。

こうして薩長主導の新政府を樹立させました。

最期は西南戦争が勃発した1877年、かねてから重症化していた病気が悪化し、明治天皇からの見舞いも受けましたが、大久保の手を握り締めながら息を引き取りました。

享年は45歳。

 

岩倉具視

1825年10月26日、堀河康親という公卿の次男として生まれました。

少年時代から公家らしさはなく、異彩を放っていたため朝廷儒学者の伏原宣明が[大器の人物]と見抜き、岩倉具慶の養子となりました。

転機は1853年、下級公家の岩倉が関白・鷹司政通へ歌道入門することとなり、朝廷首脳に発言することとなったのです。

そして、孝明天皇の側近までとなり、1858年の日米友好通商条約締結の際には反対派として関白に抗議します。

活躍したのは皇女和宮が徳川家茂へ降嫁した際で、朝廷の勅使として随行し幕府首脳などと面会しました。

しかし、こうした動きが佐幕派と見なされ、倒幕への動きが高まってきた中で命を狙われるようになってしまったのです。

この後、岩倉は5年ほど隠居します。

この間に、桜田門外の変や第二次長州征伐など、世情は大きく動いていきました。

大政奉還後にようやく赦免され、政界に復帰した岩倉は新政府の中で生き残りを狙う徳川慶喜と政争を繰り広げることになります。

その後は廃藩置県の後に外務卿に就任し、大久保利通や木戸孝允らと共に西洋を1年10ヶ月もの間、旅したことで日本の方向性を決めました。

最期は1883年、咽頭癌により死去しました。

享年は59歳。

まとめ

歴史の教科書によく載っている明治維新の写真は岩倉使節団だったなーとふと思い出しました。

岩倉具視を筆頭に、伊藤博文、大久保利通、木戸孝允らが西洋に出向し、西洋文化を日本にもたらしました。

文明開化を起こしたこの中心人物たちが、現代日本の礎を作ったといっても過言ではありません。

ただ、高度経済成長が衰退期となった今の日本はまさにまた大転換期であって、テクノロジーの進化で新しい歴史が刻まれようとしています。

これからも揺れ動く日本の歴史に注目したいですね。