明治時代

松下村塾の塾生一覧

吉田松陰が指導して優秀な人材を輩出したことで有名な松下村塾。

多くの門下生がいる中、その中でも松陰が太鼓判を押す優秀な人物を今回は順に紹介していきます。

 

松下村塾とは

幕末の長州藩・荻で1842年、長州藩士・玉木文之進が松本村の自宅で開いた私塾が始まりで、塾の名を松下村塾と名づけました。

文之進の指導は非常に厳格で、松陰が授業中、顔に止まった蚊を払って殴られたという話があります。

武士や町民など身分の隔てなく塾生を受け入れ、1857年から吉田松陰が松下村塾を引き継ぎました。

吉田松陰は一方的に授業をすることはなく、塾生の意見を聞くなど対話を重んじ、各人の能力や個性が尊重され、可能性を引き出したとされています。

塾生は50名ほどいたそうです。

松下村塾の塾生一覧

 

高杉晋作

長州藩士の長男として生まれ、1857年に吉田松陰の松下村塾に入塾しました。

幼い頃から負けん気が強く、この性格を見抜いた松陰は、一つ年上である久坂玄瑞と競わせることで能力を引き出します。

実力をつけていった高杉と久坂は、やがて[竜虎]や[双壁]と称されるようになるほど成長していきました。

何度も脱藩したり、藩の承認なく軍艦を買うなど、破天荒なエピソードがいくつもあるなど、一歩間違えれば大問題に発展するような行動をとっていましたが、要所で大事な仕事を多く任されています。

それは高杉が海外情勢に詳しかったり、見聞や知識が豊富でリーダーとしての行動を断行したりと、藩や周囲から絶大な信頼が置かれていたからです。

そんな高杉ですが、その後は肺結核で療養生活を余儀なくされ、1867年に29歳という若さでこの世を去りました。

 

入江九一

江戸時代末期の長州藩士で、1857年に弟の和作が松下村塾に入門した後、翌年1858年に遅れて入江も入門しました。

入門後は吉田松陰から高い評価を受け、高杉晋作らと並んで松門四天王の一人に数えられました。

老中暗殺計画の時には、松陰から[君だけは国のために死ねる男児である]と評されるほど高評価だったようです。

最期は1864年の禁門の変で久坂が率いる浪人隊の一員として天王山に布陣し、御所攻撃に参加しましたが敗れて久坂は自刃。

久坂に藩主世子への伝言を頼まれた九一は何とか脱出しようと図ったところ、塀を越えたところで越前兵の槍を顔面に受けて死亡しました。

享年は28歳。

 

久坂玄瑞

1840年長州藩の医者の息子として生まれ、18歳の頃に松下村塾に入門しました。

入門後はすぐに松陰から才能と優秀さを認めれれるようになり、長州藩の尊王攘夷派のリーダーとなって奔走することになりました。

同門の高杉晋作と切磋琢磨し、高杉にとって久坂は唯一頼れる存在であったという手紙も残ってるみたいです。

久坂は現代でいうプロデュース力が高く、主には松陰の遺品を同志に配布したり、松陰の改葬、伝記編纂の開始など人心掌握に関しては天才的なものがありました。

久坂も最期は禁門の変で最後に残った寺島忠三郎と共に鷹司邸内で互いに刺し違えて自害しました。

享年は25歳。

 

伊藤博文

1849年9歳の時に荻に移り、17歳の時に松下村塾に入門しました。

ここで出会った高杉や久坂らと交わり、1862年には久坂とともに公武合体論を主張する長井雅楽の暗殺を画策、品川御殿山のイギリス公使館を焼き討ちするなど、尊王攘夷の志士として活躍しました。

明治維新後は元年に兵庫県知事となり、その後は新政府の中核で活躍しました。

1885年には初代内閣総理大臣となり、以後は第5代、第7代、第10代と渡り内閣総理大臣として内閣を組閣しました。

最期は明治42年10月26日、極東問題で赴いた満州ハルピン駅にて安重根に暗殺されました。

享年は69歳。

 

山縣有朋

1838年に長州藩の蔵元附中元、山縣三郎有稔の二男として生まれました。

尊王攘夷派の影響を受け、久坂の紹介で松下村塾に入門し生涯の師と仰ぎ続けた吉田松陰と出会いました。

生涯に渡って[自分は松陰先生門下である]と称し、誇りにしていました。

明治維新後は高杉晋作が創設した奇兵隊に入って頭角を表し、後には奇兵隊の軍艦となります。

明治政府では軍政家として手腕をふるい、日本陸軍の基礎を築いて[国軍の父]とも称されるようになりました。

西南戦争では総指揮を執り、日清戦争では司令官として現地へ赴き、直接指揮を執りましたがその後は二度に渡って内閣総理大臣となりました。

日本でメリット勲章を与えられている3人の中の1人でもあります。

 

前原一誠

維新の十傑の一人で、1834年の4月に長州藩士として生まれました。

幼少期は貧しい生活を強いられ、陶器製造や農漁業をして生活をしてきました。

1857年に久坂や高杉らと共に松下村塾に入門し、才能や知識は高杉や久坂と比較すると劣るが、誠実さについては上回ると松陰から高く評価されていたようです。

しかし、金銭的な理由から松下村塾で学んだ期間は10日ほどで、その後は西洋学も学びました。

その後の第二次長州征伐では小倉藩攻めの参謀として活躍し、戊辰戦争でも参謀として長岡、会津の戦いで活躍しました。

最後は1876年、奥平謙輔とともに不平士族を集めて荻の乱を引き起こしましたが、即座に鎮圧して捕らえられ、12月3日に荻で斬首刑に処されました。

享年は43歳。

 

品川弥二朗

1843年に長州藩の足軽・品川弥市右衛門の長男として生まれました。

足軽で身分は低かったですが、1858年に15歳で松下村塾に入門。

突出した能力というのは他の門下生と比較するとなかったが、温厚な人柄と飾らない性格が非常に好感をもてるという部分で松陰が評価しています。

1859年の安政の大獄で吉田松陰が刑死した後、高杉晋作らと行動を共にして尊王攘夷運動に邁進し、英国国公使館焼き討ちなどを実行しました。

1865年には木戸孝允と共に状況して情報収集を行い、薩長同盟の成立に尽力しています。

最期は1900年、インフルエンザに肺炎を併発して死去しました。

享年58歳。

 

山田顕義

1844年に長州藩士として生まれ、松下村塾には最年少の14歳で入門しました。

幼少期の山田は無口でぼうっとしたところがあり、鼻水を垂らしても頓着しない風だったと言います。

そのため幼少期のあだ名は[はなたれ達磨]であったそうです。

1862年には柳生新陰流伝中許を得ており、明倫館の秀才、富永有隣は山田の優れた文才を見抜いて賞賛しています。

明治維新の時には宮中において黒田清隆らとともに明治天皇に謁見、戦功を賞されました。

1891年の5月には第一次松方内閣の司法大臣に留任し、直後に起きた大津事件では犯人・津田三蔵への死刑適用に奔走しました。

最期は1892年、生野銀山を視察中に卒倒し、そのまま立てずに急逝しました。

享年は49歳。

 

野村靖

1842年に長州藩の下級武士として生まれました。

16歳の時に入江九一と共に松下村塾に入門すると尊王攘夷の活動を行いました。

1862年にはイギリス公使館の焼き討ちにも参加し、第二次長州征討でも活躍しています。

明治維新後は廃藩置県にあたって、岩倉使節団の一員として渡欧。

帰国後は外務省に出仕しました。

1894年には第二次伊藤内閣の内務大臣に就任。

そして最期は1909年、脳溢血のため68歳で死去しました。

 

正木退蔵

1846年に萩藩大組士正木治右衛門の三男として生まれました。

1858年に松下村塾で数ヶ月間、吉田松陰に学んだ後に大村益二郎の三兵学科塾で蘭学、兵学、三田尻海軍学校で英学を学びました。

1870年には井上馨に従い、造弊技術習得のため木戸正二郎と共にイギリスに派遣されました。

その後は1881年に東京職工学校校長に就任し、学則改正や生徒募集などの活動にあたりました。

最期は1896年、51歳で死去しました。

 

松浦松洞

1856年に松下村塾に入門し、尊王攘夷運動に参加しました。

松陰は[才能があって気概もあり、普通とは違う優れた男子だ]と松浦松洞を称しています。

この年から吉田松陰の肖像画を描き始めたとされ、西田直養、伊藤静斎、竹院などを描きます。

1859年には安政の大獄により吉田松陰の江戸護送が決定すると萩にて肖像画を描きました。

最期は1862年4月13日、京都粟田山にて切腹し、死去しました。

26歳の生涯でした。

 

増野徳民

1841年に医者である増野寛道の子として生まれました。

松下村塾初めての入門生で、吉田稔磨も増野に連れられて松下村塾の門に入りました。

寄宿生として松陰に寄り添う増野は他塾生からは羨望の的だったようです。

1859年頃から一時村塾を離れましたが、1862年には久坂らによる長井雅楽暗殺計画に加わろうとして失敗しました。

明治時代になると診療のかたわら子供たちを集めて塾を開きました。

最期は1877年の5月、37歳で亡くなりました。

まとめ

幕末から明治期の日本を主導した人材を多く輩出した松下村塾。

指導にあたった吉田松陰の人を見る目というのはズバ抜けていたことがわかります。

その人の性格を見抜き、才能を開花させ優秀な人材へと育成していく。

スポーツの世界だと監督やコーチが選手のセンスや能力を見極め、長所を徹底的に伸ばしていくのと似ていますね。

これは現代の子供教育にも当てはまりますが、やはり長所を見極め、徹底的に伸ばしていく教育というのが優秀な人材を育成していく上で大切です。