明治時代

維新の三傑とは?呼ばれるようになった理由を解説!

明治時代初期の日本が行った明治維新。

この明治維新に尽力した人物が何人かいますが、中でも維新の三傑と呼ばれる大久保利通、西郷隆盛、木戸孝允の3人が今でも語り継がれています。

今回は、維新の三傑について紹介していきます。

 

維新の三傑とは?呼ばれるようになった理由を解説!

明治維新で高い功績を残した、西郷隆盛木戸孝允大久保利通の3人を指します。

維新の三傑と似た言葉に、維新の十傑という言葉がありますが異なります。

 

三傑の基準というのが、倒幕と明治初期の両方で薩摩・長州のリーダーとして活躍したことです。

ただ、実はこの三傑ですが四傑になっていたかもしれないという説もあります。

そのもう一人の人物とは、広沢真臣です。

 

広沢は、木戸と並ぶ長州藩のもう一人のリーダーでしたが、明治4年に暗殺されてしまいました。

あと4〜5年生きていれば、四傑になっていた可能性があるということになります。

維新の三傑物と呼ばれた3人

 

西郷隆盛

1827年、鹿児島城下で西郷吉兵衛の長男として生まれました。

18歳の時に転機が訪れ、郡方書役助という役職に就きます。

薩摩藩の下級武士だった西郷ですが、藩主の島津斉彬の目に留まり抜擢され、強い影響を受けました。

その後は薩長同盟や王政復古に大成功し、戊辰戦争を巧みに主導しました。

さらには陸軍大将・近衛都督を兼務し、大久保利通や木戸孝允らと活躍した岩倉使節団にいた時には、外遊中に留守政府を主導していきました。

そして、現在でも日本国内で最後の内戦と言われる西南戦争では、372人の西郷方に対して政府軍が5万人という悲壮過ぎる戦いが、西郷の最期となります。

別府晋介に首を刎ねられ、49歳で命を落としました。

 

木戸孝允

1833年に、現在の山口県萩市にあたる長門国萩城下呉服町で、和田昌景の長男として生まれました。

1852年に、江戸三大道場の一つと言われる[力の斎藤]の練兵館に入門し、神道無念流剣術の免許皆伝を得て、入門一年で練兵館塾頭となりました。

その後は、練兵間塾頭を務める傍、江戸で多くの志士たちと交流しながら、長州藩の尊攘派のリーダーへと成長します。

1866年に薩長同盟が結ばれた時には、長州の代表として薩摩の小松帯刀・大久保利通・西郷隆盛・黒田清隆らと会談し、倒幕勢力の結集を計りました。

さらに、明治新政府にあっては、右大臣の岩倉具視からもその政治的識見の高さを買われ、ただ一人総裁局顧問専任となり、庶政全般の実質的な最終決定責任者となります。

その後は、五箇条の御誓文や版籍奉還、廃藩置県、四民平等などを提言し、明治政府に実施させました。

最期は1877年、病気が悪化した木戸は西南戦争の最中に駆けつけた大久保利通の手を握り締めながら、43歳で死去しました。

 

大久保利通

1830年に薩摩国鹿児島城下高麗町に、琉球館附役の薩摩藩士・大久保利世と皆吉鳳徳のニ女・福の長男として生まれました。

西郷隆盛とは、幼馴染の関係で長年を共にした親しい友人でした。

1868年には、岩倉具視らと王政復古の大号令を発し、天皇のもとに明治政府を作ります。

翌年の1869年には、参議に就任し、版籍奉還、廃藩置県などの明治政府の中央集権体制確立を行いました。

さらに、1873年には内務省を設置し学制や地租改正、徴兵令などを実施。

そして、「富国強兵」をスローガンとして、殖産興業政策を推進しました。

最期は1878年、幼馴染である西郷隆盛と意見が対立して起きた西南戦争で、西郷隆盛を死に追いやった大久保は、征韓論派の士族によって暗殺され47歳で死去しました。

まとめ

維新の三傑で挙げられる西郷隆盛、木戸孝允、大久保利通。

維新の三傑ではなく、維新の十傑というのもあるみたいですが、その中でも中核となったのがこの3人となります。

 

3という数字は記憶するのにもちょうど良く、[3の法則]という言葉もあります。

4つ以上になると覚えにくく混乱するが、2つだと物足りない。

ちょうどいいのが3になるのです。

この法則も利用され、維新の三傑の3人は今後も人々の記憶に刻まれやすいということが考察できますね。